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自分史

肩書き 自分を認めたい(自分を認めるだけで全てが好転する)方専属ライフコーチ


1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。

職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。

全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。肩書き 自分を認めたい方専属ライフコーチ
1978年東京都生まれ。4人きょうだいの長女。弟2人、妹。
幼少期、弟、妹にかかりきりの両親を見て自分は不必要な存在だから早く家を出たいと考えるようになる。経済的に厳しく住居がなくなる経験をする。「こんな人達にはなりたくない」と両親に対して嫌悪感を抱く。

自立を目指し、夢だった看護師になる。26才の時弟が交通事故で亡くなる。その後家族間のトラブル多く「お前は失敗作だ」と父に言われた事を契機に不必要な人間だという思いが強くなる。職場やママ友とのトラブル増加。患者さんと上手くコミュニケーションが取れず、イライラすることが多く看護師として働く事がきつくなる。コーチングを受けて自分の気持ちを理解したことで患者、家族の本音や精神的な事も理解を深めることができ働きやすくなった。全てを「私は失敗作だ」に繋げて自己否定していた事が上手くいかない原因だったと気づく。自分自身を認める事で周囲から話しかけられる事がさらに増え、昇進の話しが挙がる。夫から「優しくなった」と言われ愛されていた事に気づく。長男との突然の別れを経験し、命には限りがあると再認識。その時感じた気持ちや目の前の人に向き合うことや受け止めようとする姿勢で、日々看護師やライフコーチとしても活動している。

自分史

①幼少期
1978年東京都生まれ。4人兄弟の長女として生まれる。父は自営業、母は専業主婦の家。
2歳下に弟(長男)、3歳下の弟(次男)、6歳下の妹(次女)という家族構成だった。
母は家事や育児に忙しく、よく私にお手伝いを頼んでいた。1つのお手伝いが終わったと報告すると「次はこれね」と次から次へと家事の手伝いを頼まれた。外で友人と遊んでいるときも、母に声をかけられて、家事を手伝うために途中で帰ることが多かった。「本当はもっと遊びたかったのに」と思ったけど「”私が”母を手伝わないと」と思っていたから、我慢しつつも率先して兄弟の世話をしていた。母を困らせたくなかったからだ。
母は私と会話する時、目を合わせることはなく作業をしながら私の話を聞く人だった。その姿を見て、とても悲しい気持ちになっていたのを覚えている。お母さんは私のことはあまり大事じゃないのかな?とか、私のことは興味がないんだと思ったし、いつも放っておかれている感覚が強くあった。
「私は兄弟の世話をするためにこの家にいるんだ。私の存在が必要なわけじゃない」
”兄弟を世話する私”=価値という思考になっていっていた。だから、兄弟の世話をしたり、誰かの機嫌を取っていないと自分を認められなかった。

そもそも、母が忙しかった大きな要因は父にある。父は自営業で、帰宅は毎日22時過ぎ。父とは平日に顔を合わせることはほとんどなかった。休日は父の趣味で、家族全員で競馬場へ行くこともあった。競馬場が近づくにつれて母の顔が引きつっていき険しく不機嫌な表情に変わっていったのを鮮明に覚えている。

また父と母は、よく夜中に大声で喧嘩していた。2人の機嫌や仲が悪くなる事がいつも怖かった。そんな両親の様子を見て、いい子でいて、母の負担を減らすることが私の役割だという思いが強化されていった。
父は亭主関白、かつ寡黙で母に向かって「お前は、俺の言う事を聞いてればいい」と言うような人だった。父にとって私は、なんでも話を聞く都合のいい話相手だったと思う。父の話しを否定せず「うんうん」と相槌打てば父の機嫌は良好。だけど、父と違う意見をいうと途端に大声出したり八つ当たりされて機嫌がとても悪くなる。振り返ると、父も不安で誰かに肯定して欲しかったんだろうな…
唯一、両親が私を認めてくれる機会があった。それは、エレクトーンの発表会である。4歳頃から母に勧められ習い始めた。発表会後は両親ともに機嫌がとても良く、私自身上手に弾けると楽しかった。学校生活で伴奏者になる事が多く、その時だけ自分に自信が持てた。19歳まで続けることができ、私にとって唯一誇れるものだった。

②小学生
放課後は毎日家に直帰。買い物や兄弟の世話、常に母と一緒に行動をしていた。本当は同学年の友達と遊びたいと思っていたけれど我慢するしかなかった。弟や妹の面倒を見ていると、弟の友達の世話までしなければならず、とても疲れた。「どうして私が、弟の友達の世話までしなくてはいけないのか。大人は全員私を大切にしてくれない」と思っていた。
小学3.4年生ごろになると弟や妹の世話をすることは少なくなっていった。6年生春頃、団地で同級生の友達と遊んでいたら、おじさんが「不思議な水が出る」と言い、家についていって飲ませてもらった。(不思議な水は、ポカリだった笑)おじさんが社会で起きていることやおじさんの人生の話をしてくれてその日はとても面白かった。嬉しくて母にその出来事を勇気を出して話したところ「そんな人と遊ばないで、危ないから」と言って激怒された。やっぱり言わなきゃ良かった、楽しかったことを報告しても母に否定されると落ち込んだ。母に日常のことは話すのはもう、やめようと心に誓った。
学校は、私にとって天国だった。担任の先生が沢山褒めてくれて、自分の存在に自信が持てた。母が認めてくれない分、学校や友達に認めてもらえるように、嫌われないようにと考えて過ごした。
5年生のときに、七夕集会で織姫に選ばれた。母が「着物持っていったら?」と言ったので、持って行くことにした。でも自分では着れなくてどうしていいかわからなかった。「着方がわからないから手伝ってほしい」と先生や友達にも言えなかった。結局着物を着れず、友達とゴミ袋で作ったワンピースを着た。他の学年の子達は、初めから手づくりの衣装を用意していて、ゴミ袋は場違いだったのですごく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。母の言うことを聞いてもろくなことがない・・・小さい頃から父方の祖母が私に母の悪口を言ってたことを思い出し、母は「全て間違っているのかもしれない」と母への信頼が揺らぎ始めた。
また団地の下で遊んでいると母が家の窓から私を見おろしていることがあった。帰宅時間が遅いと「何してたの?」と言われたり、遊ぶ場所や遊び方などについて小言を言われることが多かった。友達にもその小言を聞かれてとても嫌で恥ずかしかったし、常に母に見張られている感じがして窮屈に感じた。「私は母に信頼されてない」と思ったし、母に対してフツフツと怒りが湧いた。この怒りを母に出してしまうと、親子関係が終わってしまうような気がしてグッと怒りを堪えていた。

③中学生
中学に入ってからは、新しい友達がたくさんできて楽しくなった。バレーボール部へ入部し、充実した日々を送っていた。試合で負けたとしても、チームでプレイできるのが楽しくてたまらない。部活が終わって、コンビニへ寄って遊んで帰ることもあり、帰宅時間は19時近くになる日もあった。門限は17時で、門限を過ぎてしまうと母から「あんな子たちと付き合うな」と必ず小言を言われた。
私は母に対して「友達のいい所も知らないくせにうるさい」と怒鳴るように答えた、母に直接言い返すようになったのはこの頃からだ。
家で過ごすよりもバレー部の友達といるときの方が楽しかったし、自分らしくいられた。自分の居場所をようやく見つけたような感覚だった。家に帰るとまた友達のことを悪く言われるんじゃないか?と嫌気がさし、余計家に帰りたくなくなる。帰宅時間もどんどん遅くなって母とのやりとりは激化した。担任の先生に相談すると先生は私を公園へ連れて行き、話しを聞いてくれた。話を聞いてもらうと心のモヤモヤが晴れて家に帰ることができた。

この頃から母い小言を言われたり怒られることが増えた。母が私の存在を否定しているように感じた。帰宅後、兄弟がいうことを聞かなかった。その様子を見て私は「お姉ちゃんは邪魔、いらない」と言われてるように感じた。母が兄弟を私と同じように扱わないからこんなことが起きるんだと母に八つ当たりをして、母に文句をいうようになった。

高校受験が迫っていた中3の年、母へ「この高校へいきたい」と伝えた。返答は「お父さんに相談しなさい」だった。行きたい高校を伝えると父から「浩美のいきたいところは、成績がギリギリだから1個下のランクの高校にしなさい」と言った。父に反抗したら学費を出してもらえないかもしれないと考え、1個下のランクの学校を受験。私立の併願も女子校にした。この家には私の居場所はない。そう強く思った。

④高校生
母は反抗し続けることで私を腫れ物のように扱った。高校生になって私は22時過ぎに家に帰るようになった。家族とまともに話さなくなっていった。また部屋は妹と同じでとても窮屈だった。私を見る妹の目が「何でお母さん達を悲しませるの?」と言ってるようだった。私はその目に悲しくなって、余計にイライラしていた。
家族の中で唯一、弟(長男)とはよく話した。彼は静かに話しを聞いてくれた。アドバイスする時は笑いながら「こうじゃね?」と言ってくれた記憶がある。真剣に話を聞きながらも、冗談っぽく笑って過ごしてくれて彼の存在は本当にありがたかった。
高校2年生、突然ピアスを開けたくなり、学校で開けた。だけど両親が気づいたのは、半年後だった。本当は両親に見てほしかったし気づいてほしかった私は「こいつらバカだな、私には興味ないんだ」と心の中で悲しく笑った記憶がある。
同じクラスの子から部活は水泳部のマネージャーに誘われて入部。女子より男子といた方が楽で、一緒にいた。先輩や部員と話していることが楽しかった。女子からは、時々嫉妬されることがあり、陰口を言われているのを耳にした。
ある日、同級生の男子の一人が、「後輩Aが浩美のことを好きらしいぞ」と言ってきた。その後後輩Aに告白された。急なことで私は戸惑った。戸惑いの中にいると後輩女子から直接「何で先輩を好きになるのかわからない」と言われたのだ。(どうやらその女子の後輩はAを好きだったらしいと後で知ったのだが。)
その一言は、私にとっては強烈に突き刺さっ存在を否定されてるように感じて、私は私のままでいたらいけないのかと思った。
悪口にショックは受けたものの学校は私にとって唯一の楽しい時間、気の合う仲間といれるから気にしない、そう決めていたのだ。だから、後輩の陰口のことは気にしないようにした。
部活と並行しバイトも始めた。自立できたようでお金を稼げることが楽しかった。自分がしっかりしないとと思って生きてきたから、年上の人と接すると私は勝手に安心感を抱いた。

高3のとき、バイトで出会った大学生とお付き合いすることになった。彼が文化祭を見にきてくれた。彼に、同学年の男の子と話しているところを見られたのだが「何で他の人と話すの⁇」と頬を叩かれた。それが私への否定に感じて、彼にまで否定されるなんて耐えられないと思い、彼とは別れることにした。その後、バイト先で告白してくれた男性がいた。バイト仲間の女子から「何であなたのことなんて好きになるんだろう」と言われ、「まただ」と思った。このままの私では良くないのかもしれない。人と仲良く話すと恨まれる。
バイト先でも居心地が悪くなってしまった。家も私の居場所じゃない。私にとって部活の同期が全てで安心できる居場所だった。部活の同期がいなかったら、私は心が折れていたと思う。今でも部活の同期メンバーとは、交流がある。あの仲間がいてくれたことは本当に本当にありがたい。
高校3年の時クラスでは女子グループ10人の中にいた。ノリが合わない人もいたし、話も合わなかった。だけど友達に本音を言ったら雰囲気を壊すと思ったし、みんなに嫌われたくなかった。だから自分の気持ちを押し殺して一緒にいた。自分を押し殺した関係は、すごく疲れたけれど部活の仲間と会うために高校は行き続けた。
進路を決める時期が来た。看護師の夢は変わらず持ち続けていた。1番学費の安い学校を探して受験した。本当は大学へ行きたかったが、下に兄弟がいることや大学進学は経済的負担が大きいと考えたので、言えなかった。両親は看護師になることを伝えたら、「国家資格や社会的地位もあるから」とすぐに受け入れてくれた。

④専門学校
専門学校では、気の合う友達4人で一緒にいることが多かった。学校外の遊びはもっぱら、カラオケや食事に行き、1日中遊んだ。辛い看護実習は励まし合いながら乗り切った。
学校が終わり、バイトへ行き、夜中そのまま遊び、明け方帰りまた学校へ行く生活にして家にいる時間をできる限り減らした。バイトがない日は、家族みんなが寝静まってから家を出ていた。
そんな生活を半年くらい続けたある日、帰宅したら「お前は何をしてるんだ!いい加減ちゃんとした生活しろ!」と父が私に殴りかかってきて胸ぐらをつかまれた。
弟(長男)が父を止めてくれた。「夜中何してるんだ?いい加減こんな生活やめろ、何が不満なんだ?お母さんが心配してるんだぞ。」と父が自分の思いばかり言っていたので話しにならなかった。私は両親に「私のこと産まなきゃ良かっただろ」と言って反抗し、その場を終わらせた。

専門学校に行き始めたくらいから、父と母の折り合いが今までで一番悪くなった。母が急に家出した。家出をして子供を放置するなんて、私は許せなかった。家での最中、母から連絡が来て会いたいと言われ会うことにした。
母に家出の理由を聞くと「あんたにはわからない。だって私の話、何も聞いてくれないじゃない」と言われ、と愕然とした。子供のことより自分のことかと。夫婦の問題だから夫婦で解決してよと伝えると「あんたはいつもそう、お父さんの味方」と怒って言い返された。もう母と話すのは無駄と思い、私の思いを伝えることを諦めた。
結果的に、すべての家事が私に降りかかってきた。料理はやった事がない。実習は忙しい、どうしていいかわからないし、いっぱいいっぱいで落ち込んだ。誰にも相談できなかった。家事をやるしかなかった。学業と家事のバランスが取れず、20歳をすぎてお酒を覚えてからは、飲酒しながら家事をした。1日1ℓ飲む事もあった。
とある日に、兄弟から「肉じゃがが食べたい」とリクエストがあった。私は頑張って作ったのだが、塩と砂糖を間違えて味は壊滅的。しょっぱすぎて食べられたものではなかった。うまく家事ができない自分にも、家出してる母にも腹立ち、鍋ごと台所にぶちまけた。弟は「そんなこともあるよ」と言い、雰囲気をよくしようと笑っていた。妹は私を怯えた目でみていた。
食費は父から5万円もらっていた。中高生の弟、妹がいて作る量もわからなかった。食費をうまくやりくりできず、月半ばには食費が底をついて、キャッシングで20万借金をした。米を買うお金がなかったが、ダメな自分をさらけ出すようで父には言えなかった。後日父にお金を借りたことを伝えると「何だ、足りないのか。どうしてできないんだ」と言われ、この瞬間、母が家出した理由が少し理解できた。私は妻ではないと冷めた感情を抱いていた。
母は家出から半年経って急に戻ってきた。お互いに納得するまで話したのかと母に確認してみた。母は「何も話してない。子供が心配だから」と言っていた。納得していないことが態度や口調でわかった。また出ていかれる辛さもあるし、母も辛そうだったから、私は母の話を聞こうと努めることにした。
専門学校2年生の夏、私だけ実習が不合格になった。実習に落ちたら看護師になれない。私のすべてが否定されているようで、不合格という事実を受け止められなくて専門学校を辞めようとさえ思った。友達3人からはたくさんの連絡が届いていたが、できない自分が恥ずかしくて全ての連絡を無視。母と先生と話し合い、留年すると決めた。母に気分転換を勧められたことがきっかけで友人に返信。4人で夏休みに旅行へ行くことになった。
夜みんなで話すことになり、みんな口を揃えて心配したと言ってくれた。その言葉を聞いても私は、心配してくれてるのはうわべだけと心を閉ざしていたし、彼女達に劣っている気がした。なのに4人は私のために涙を流してくれて「悩みを話して欲しかった」と言ってくれた。ああ、こんな仲間の連絡を無視するなんて馬鹿なことをしたんだと反省した。
2年生秋から休学。休学して、家にいてもやることがなく、母の勤め先のデイサービスでボランティアを始めた。利用者さんや職員も私に役割を与えてくれて嬉しかった。何よりみんな優しかった。利用者さんと接すると楽しく、役に立っている自分がいた。ここで改めて看護師になろうと決意。少し年上の女性の1人がよくご飯に連れて行ってくれて家や学校のことなど、話しをよく聞いてくれた。
両親から20歳のお祝いにロレックスの時計をもらった。初めて今までの頑張りを認めてもらうようで嬉しかった。成人式のとき、いざ時計を使おうと思って探したけれど、家中探しても見つからない。母に尋ねると「お金がないから時計はお父さんが売った」と言った。私はどうして勝手なことをするのか理解できなかったし、プレゼントを売るなんて人としてどうなのか、ここまでお金がないんだとと愕然とした。それから両親と話すことはほとんどなくなった。
2度目の2年生の春、復学した。学校生活が再スタート。一つ下の学年になり、友達は少なかったけど、学校は楽しかった。看護師になりたい気持ちが強くなっていたから勉強も実習も頑張れた。休学前に仲の良かった友達が恋しかったけれど学年が違うのでなかなか会えなかった。会うことは難しいけれど私にとって励まされる存在で彼女たちのことを思い出すと勉強を頑張れた。(国家試験合格の時はみんながお祝いしてくれた。とても嬉しかった。やっと同じ位置に立てたような気がした。)
専門学校卒業式間近に突然知らない人がやってきた。無理やりに段ボールに家の荷物を入れていく。家を強制退去することになったようだ。現実を受け止められなかった私はとりあえずバイトへ逃げた。バイト後弟が迎えに来てくれて、埼玉の祖父母の家へ行くことになった。帰った家が自分の家じゃないことで、家がなくなったことを理解できた。祖父母の態度がいつもと違い怪訝な表情、来てほしくないような感じで今まで以上に窮屈だった。祖母が母に冷たく言い放ったり、小声で文句を言う態度を見て、今まで母もつらかったのかと初めて思った。
国家試験に合格したら寮に入れる。合格しの知らせを聞いて「やっと家を出れる」本当に嬉しかった。

⑤就職
自分の手持ちのお金がなく、両親にも金銭的援助のことは言えなかった。寮への引っ越しは友達に頼んだ。家具も買えず段ボールをテーブルの代わりにして食事をした。
無事に市民病院へ就職。患者さんと話すことや人の役に立っていることがとても楽しかった。家に帰ると「1人になりたい、家を出たい」とずっと思っていたのに、淋しい気持ちでいっぱい。自分がそういう感情になることに違和感を感じたけれど寂しい気持ちを押し込めて仕事をした。

就職してすぐに母から電話があった。「お父さんから、あなたが看護師になったからお金借りてほしいって言ってる。ダメかな?」
私は「ふざけるな。就職してすぐの娘に言うことじゃない。」と言い返し電話を切った。両親にとって私は”金ズル”なんだと思い、すごく落ち込んだ。それからすぐに、両親と弟たちは祖父母の家から新しい家へ引っ越したことを知った。実家へは、正月だけ帰るようになった。
就職して1年目、ドクターと付き合った。自分の思いを押し付けてくる人で嫌だなと時々感じた。だけど経済的に裕福、時々の嫌なことは我慢できたので付き合いは続けた。当時の私にとって目に見えない愛情よりもお金や家や社会的地位が1番大切だと思っていたからだ。少し経って彼の束縛がひどくなり、友達と自由に遊ぶこともできず我慢の限界を迎えて、別れ話をした。「君に別れる権利なんて何もない」と言われその一言で彼への想いが一気に冷めた。
「権利って何だ?この人も父と一緒で私のことをバカにしたり女を下に見たりしている」と思ったし、父と母の関係みたいで嫌だった。 別れることでスッキリした気持ちになった。

26歳、今までとはタイプが違う寡黙な彼との同棲を始めるにあたり荷物を取りに実家に帰ることにした。久しぶりに母と話したところ、物理的な距離のおかげか母の話を余裕を持って聞くことができた。同棲について、母は賛成してくれたけれど、父には怒られると思い言えなかった。
彼氏と同棲始めた。年齢的にも結婚を考えていたし、真面目な彼でお金や料理の事もしっかり計画立てて毎日過ごしていた。だけど予定外の事があると機嫌が悪くなったり、口を聞いてもらえないことがあった。ずっと我慢している自分に気がついた。私が夜遅く帰ると彼はすごく機嫌が悪く無視したり、今までの不満をこと細かく言われることが多かった。窮屈な生活が嫌になり、自分をごまかせず、同棲解消しその後別れた。「やっと自分らしく生活できる」と思った。

同じ頃、弟(長男)の結婚の話が持ち上がっていた。弟(長男)は23歳学生、弟の彼女は25歳だった。社会人になる24歳に結婚したいと両親を説得していたようだ。社会人1年目で結婚することに関して両親は反対していた。
弟にこれまで助けてもらった恩を返したくて、両親と長男の話の折り合いがつくように両親の話を聞き、弟に伝えた。弟の希望が叶うようにと意気込んだ。1年かかったが弟(長男)は結婚できた。私は嬉しくて弟(長男)の未来は明るいと信じていた。しかし弟(長男)は就職してすぐ、24歳の時に交通事故に遭い亡くなった。
私は弟が亡くなった時期ちょうど病院を転職したばかりだった。その病院はがん末期の人が多かった。弟の忌引き明けすぐ患者さんをお見送りした。「弟(長男)のことを助けられない自分」「ありがとうと言われる自分」と心の中は複雑だった。家族も助けられないのに、自分自身看護師をしていることが許せない。気持ちの整理ができず毎日泣くしかなかった。同僚や学生時代の友達が話を聞いてくれて、1年たつと少しずつ元気になっていった。支えがあったおかげで看護師を続けることができた。次第に、私のこの経験が出会った患者や残された家族に生かされればと思うようになっていった。
弟が亡くなってからすぐに、住居は実家へ戻した。理由は、他の家族が心配だったし、家族の近くにいたいという気持ちだった。みんなで、食事中泣いて弟の思い出話をした。母が話す私たちの小さい時の話を聞いた。聞いていくうちに「もしかしたら私って大切に育てられてきたのかもしれない」と思い始めた。幼少期思っていたことは、私の思い込みだった部分もあるのではないか?時間の経過とともに家族にとって「邪魔な自分」から「大切にされていた自分」へと少しずつ認識が変わっていった。

⑥結婚
28歳秋、友人の結婚式の2次会で今の夫とは出会った。帰り道が同じ方向で7駅分の距離を2人で歩いて帰った。
私はいつも恋愛の話はしないのに、彼(現夫)とのことは逐一母に伝えていた。母は「そんなに優しい人はいないから大切にしないと」と言っていた。歩いてる中で私を受け止めてくれると安心感を抱き、一緒にいることが楽しかった。付き合い始めて3か月で妊娠し結婚した。
弟(長男)の時より話がスムーズに進むことで弟のことを思い出した。
弟の結婚の時、私がみんなを説得して結婚に導いてしまったことが弟(長男)の亡くなった原因ではないかとも考えた。しかし妊娠中の身体の変化や毎日の忙しさで考えることをやめることにした。
出産後、両親は孫を見て笑顔になることが多かった。弟(次男)や妹も私の子供のことをかわいがってくれて、私はとても嬉しかった。他の家族が子供に接している姿をみて「私もこうやってかわいがられてたんだな、この家族にいてもよかったのかな」と私は大切にされていたという想いが強くなった。
しかし、変わらず両親の仲はあまり良くなかった。父はスナックのママに熱をあげ、弟(長男)の遺産を使い込んだ。私は本来、ないはずのお金をくだらないことに使う父が許せなかった。母は父と離婚したいと言い始めた。
父の行動や今後について家族で話し合いをすることになった。私は父の自分勝手な言い分が許せなくて怒りで感情をコントロールできなかった。「どうして子供が亡くなったお金をくだらないことに使うのか、困難があったときは夫婦で乗り越えようとしないのか」と吐き捨てるように大声で怒りをぶつけた。父からは「お前にはわからない、俺の気持ちなんて。そういうことを親に向かって言うなんてお前の育て方を間違えた。お前は失敗作だ」と言われた。怒りのあまり私は、手元にあった水入りのコップを父に投げつけた。「親が失敗なんて子供に言うのは死ねということか」と泣き叫んで家を出た。
当時私は2人目の子を妊娠し8か月だった。
翌日父から「あんなことを言わせたお前が悪い。俺は間違ったことは言ってない」とメールが来た。謝りの言葉はなかった。”ああ、やっぱり私は昔から失敗作で邪魔ものだったんだ。昔思っていたことが正しかった。私がすべて悪い。やっぱりこの家や家族には私は必要はない”大切にされていると思いかけていた気持ちは消えてなくなった。
それからは父に対して心を閉ざし一切話さなかった。母は一連のことをみて離婚を決意した。母、弟(次男)、妹と一緒に暮らし始めることを決め、父を置いて1か月後には家を出た。
2人目出産後、育児と仕事の両立は大変だった。母が一緒にいてくれたので助かった。父から言われた言葉は私の頭から離れることはなかった。
母や主人と喧嘩すると「私は失敗作だ」と自分を否定する言葉が自分から湧いてくる。夫と喧嘩したとき「お前、そういう風だからお父さんにも言われるんだ」と言われたことがあって落ち込んだ。
私は「言われる言葉」だけに反応して怒って泣くことを繰り返していた。36歳になり、育児も仕事も少しずつ落ち着き始めた。
仕事はというと、同じ病院で10年働き、「このまま妥協して働いていていいのか。本当はずっとここで働いていたくない」と思いながら過ごしていた。そんな時、最期を迎える方の部屋がないということが起こった。患者や家族にとって最期はとても大切な時間と考えていた。弟(長男)のこともあり、どうしてもそれが許せなくて転職を決意した。

⑦訪問看護
1人1人と向き合おうと決め、これまでの病院勤務ではなく訪問看護の現場へ転職した。初めは病院と在宅看護の違いがわからなくて必死だった。
わからないことを先輩に質問したら「それを検査したからって在宅で何かできるの?在宅と病院の違いをわかっていない。わかったような口を利かないで」「あなたは無理よ、この業界」など言われた。わからないことを聞いてるのにどうしてそんな返答をされるのかがわからなかった。そして「そうだ、私は失敗作だからだ」とまた思った。さらに患者に怒鳴られることもあった。どうしていいかわからず、自分の殻に閉じこもった。同僚に相談すればすっきりするかもしれないと思ったが、私からは話しかけなかった。同僚の人達が信頼できるかわからないと思ったからだ。質問しても「あなたは病院との違いを全くわかっていない」と言われることばかりで私のできないところにフォーカスされる気がして職場の人は敵だと思うようになった。
上司にも相談してみたが「気にしないことが正解」の一点張り。話しも聞いてくれなかった。私は10年振りの入職者だったことを知り私はよそ者だ。皆に常に監視されてる気分にもなった。だけど時間の経過とともに仕事の流れ、患者との接し方や同僚との付き合い方、自分の生活にも慣れて病院の経験を活かしつつも自分なりの在宅看護をできるようになった。
だんだんと皆が嫌がる患者や対応が難しい患者を任せられるようになっていった。「あなたなら大丈夫、頼りになる」と言われることもあり、中心的な役割を担うようになった。

入職して5年が経過。新たに入職してきたAさんと患者のことでトラブルが勃発。入職してきたAさんと後輩がペアナースだったのだが2人の関係が険悪だった。
後輩の方が正しいと思った私は、Aさんに「あなた同じ看護師なんだから、私たちと同じようにできない?私の言っていることは正しいから言うことを聞いておけばいい。あなたの考えは聞いてない、だってこっちの方が経験もあるからとにかく聞いて」
のようなことを言った。かつて自分が入職したとき嫌な扱いをされたと思ったのに、いつの間にか私がそうなっていた。

今思えば、一方的に「もっと勉強した方がいいし患者や同僚とコミュニケーションも取った方がいい、どうやって今まで看護師の仕事してきたの?」など指導とは言えないような否定的な言い方をしていた。なんとか問題を解決したい一心だったけれどうまくいかず、イライラしていた。Aさんは「自分なりに考えながら仕事してるし、誠実に看護師として働いてきた」と傷ついている様子だった。私以外の職員はAさんと関わろうともしなかったので、私がなんとか育てないといけないと思いこんで必死ではあったけれ今思えば勝手に自分の意見を押し付けていただけだった。

同じ頃、小学校のPTAの卒業対策委員の委員長を担当することになった。パソコンの用語がわからず、質問した。私は伝えられたことがわからなくて、「わからない」を連発していた。自分なりに調べたけど、用語の意味すらわからなかった。質問したママ友Bさんに「人に聞くくせにすぐわからないっていうの?1度確認するとかしないの?人に教えることや説明することって労力が必要なんだよ」と怒った様子で言われた。
私と話すことに労力をかけたくないんだと思い、ショックだった。けれど関係を壊したくなくて謝った。私の全てが悪い。謝る以外方法はないと考えた。でも心の中ではそんなに労力がかかるもの?何にこの人は怒っているんだろう?とよくわからなかった。私は教えることは労力でもないし、わかるなら協力すべきでしょとも思った。
ただ、そのBさんと仲が悪くなることは避けたかったので謝ろうと思った。私はBさんに対して、「これを言ったらまた嫌な思いさせるかな、怒られるかな」と考えるようになり、目を合わせたり言葉を伝えることができなくなった。何か嫌なことが起きると「お前は失敗作だ」という父の言葉を思い出すことが多かった。自己否定を重ねて年齢が上がることにより疲弊感が強くなっていった。
周りとうまく付き合いたい、自分を変えたい、父からの言葉に振りまわされたくないと強く思った時ににコーチングに出会ったのだ^^ここからが私の転機です。

⑧コーチングに出会い
いつもイライラしている自分が嫌でなんとか変えたいという気持ちが高まってきた。数年後に管理者として働くことを打診されているから、もし管理者になるなら今のままではダメだと思っていた。
今から準備しておきたいと思い、以前から興味のあったコーチングについて調べてみることにした。インターネットで検索したところ、コーチとして活動している石原瑶子さんが出てきた。
プロフィールを読むと同じ看護師ということだったので勝手に信頼感が上がった。早速申し込みをして、石原さんからコーチングを受けたい理由を一生懸命彼女に説明した。気づくと、私は大号泣していた。その場でコーチングを受けるか決断が必要で、迷いながらも「やってみよう」と決めた。
2022年秋、私はコーチングを受け始めた。最初の半年は「これで人生が変わるんだろうか?」半信半疑で、アクションプランを実行することもほとんどなかった。
ただ怒りをなんとかしたくて「怒りの下にある一次感情を理解して、動いてみよう」とコーチと約束したことを試してみた。試してみると怒っている本当の理由は「淋しさや悲しさだったんだ」とわかって、衝撃だった。思いのほか心がスッキリして、楽になる感覚があった。それからは、コーチングで決めたアクションプランを次々と実行するようになった。続けていくと俯瞰して自分を見て感情をコントロールすることができ、人に対して穏やかに接することができるようにまでなった。

「これは私に合っている。もう少し続けてみよう」

そこから地道にライフコーチングを受け続けた。
続けていくと
・相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していること
・思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
・〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること
がパターンとして見えてきた。

相手の機嫌は全て私のせいと自己否定していることについては
私は、相手の機嫌の良しあしを「自分のせいかもしれない」と思い悩んでいることが多々あった。強めの口調で話しかけられると、「怒られている」「私のことを拒否された」と受け取っていた。私の発する言葉は「~された」といつも被害者の立場になっていた。

思いこみが多く事実と主観がごちゃついていること
コーチングを通して起こった出来事を事実と主観を分け、1次感情を理解するように努めた。そしてどう在りたいかを自問自答し、毎日実行した。
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていることについては
〜すべきという考えを相手にも自分にも強いていること私自身の思い込み、相手に対して「~すべき」と思っていることもあった。自分の本音がわかることで相手への伝え方も変化した。そして私の捉え方を変える必要があるとわかった時は捉え方を変えた。そうすることで相手のこと、自分のことも認めることができた。自分のことが理解できるようになると相手の本音がみえるようになってきた。そして色々な人の価値を認め、尊重できるようになった。

コーチングを受け続けて自分を整理していくと

・ 被害者意識がなくなった
∙ 自分と相手は違う、ということに本当の意味で気づいた
∙ 無意識に自分自身を否定していたことに気づいた
∙ 人の言葉の裏にある「本当に言いたいこと」を考えるようになった
∙ 相手に選択を委ねられるようになった
∙ 色々な人の価値観を認められるようになった
∙ 毎日生きていることが、楽しいと感じられるようになった
・自分をそのままで認められるようになった

とても嬉しかったし、変化が楽しかった。

変化は仕事にも現れた。患者さんから「あなたに来てほしい」「死ぬまで看ていてほしい」と言ってもらえることが増えた。相手に伝える言葉を選べるようになったからだと感じている。本当の意味で寄り添うことができる様になった。この仕事は大変と思っていたが、エネルギーをすり減らすことはなくなり。心も体も楽に働けることができるようになった。
人間関係も変わった。トラブルは減り、気づけば人から頼られることの方が多くなっていった。会いたい人と会えるようにになり、毎日が楽しくなった。(いつも頭の中を竹内まりあの毎日がスペシャルが流れるようになっています)
そして、思春期を迎えた子どもとの距離感も、自然にとれるようになった。夫婦関係でも、素直な気持ちを伝えられるようになり、喧嘩もするけれど、感謝も伝えられ、二人でデートしたり、うまくいくことが格段に増えた。
自分次第で人生は自分の思い通りになることができると実感している。次第にコーチングについてもっと勉強したい、人にも伝えたいと思い始めた。2024年フィールドシフト(ごめんviewスイッチになるからそっちで書いていた方がいいかも?もしくはフィールドシフト(現viewスイッチコーチング))コーチング講座を受講。コーチとしての活動も少しずつ始めた。

会社では最年少であったが2025年には副管理者、翌年訪問看護ステーションの管理者に抜擢された。年収も2倍になった。管理者として過ごしながらも自分を認めるだけですべてが好転することを伝えるためライフコーチとして働いている。他の看護師が心も体も楽に働けるように管理者として奮闘しています。

コーチとして2026年からは看護師のためのセルフコーチング講座を開講し、看護師が心地よく過ごせるような講座を開いている。